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ニセ科学(4)「人間の頭脳と合理性」 令和5年4月19日_文字起こし

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ヒバリクラブご覧の皆様おはようございます。今日は大変に晴れて。東京の家の方にも帰ってまいりましてですね。久しぶりに2週間ぶりぐらいですかね。ちょっとゆっくりしておりまして。いつもの背景の部屋でやっております。

今日はニセ科学の4番目ですね。大変に素晴らしい議論を聞きましてね。4人の方の。それぞれよく科学というのを考えておられることなので。しかし、私と考えは違うんですね。考えが違うってことは、科学の範囲なんですね。

科学は宗教と違いますから。誰が言ったから、これを守らなきゃいけない、なんちゅうのはなくてですね。それぞれの人がそれぞれの頭で考える。これがまあ科学ですので。反論を許していただいて、私もニセ科学の4番目で、具体的には今度の疫病のこととかですね。それから、福島の原発事故の話をしたんですけども。

残りの2つですね、4-18と4-19はですね。より深く論理的なものですから、ちょっとこういうのを聞き慣れない人はですね、何言ってるかな、退屈だなと思われるかもしれませんが。人間は具体的なことと抽象的なことの2つから考える必要があるので、ここでは抽象的なことの2つ目ですね。

人間の頭脳には欠陥があります。これはこのちょうど頭の真ん中の方にある伝統的な脳に対して、大脳皮質ていうのは大脳の側の方に偏ってあるわけですね。この構造が非常に利己的な構造をしておりまして。自分が正しいと思ってることは正しいとかね。夫婦喧嘩の原因になるわけですね。それから戦争の原因にもなるわけですね。

こういったその自分の考えてることが正しい。じゃあ、自分が考えるというのはどういうことかって言ったら、やっぱりこれはね、特に大脳皮質では利己的になっちゃうんですね。この伝統的な脳っていうのはですね、6億年にわたる生物の生活の中で凝縮した知恵ですね。それが詰まっておりますので、6億年ですからね。やはり、いろんなことが詰まってて、私の感じでは、利他的なんですよ。

まあ私酪合とかですね。かけがえのない国日本なんていう本最近書いてるんですけども。そこで一生懸命言ってるのは、実はヨーロッパ文明が愚劣で野蛮でですね、日本文明が高度だってことはどこから生まれてるかっていうと、大脳を中心に物を考えるか、それはある程度この伝統的な脳に参考を求めるかというところに差があるっていうのが私の考えなんですね。

ヨーロッパもイエス様の時はですね、伝統的な脳を相当重要視してたわけですが、ええまああまりにイエス様を偉かったので、1000年以上思考が停滞しましたね。それの反動としてルネッサンスで大脳を活かそうってことになりまして、自己とか、自己実現とか、合理性とか、論理性とか、我考える我ありというようなことがどんどん出てきたわけですが、これらはすべて利己的ですね。

ですから、利己的に考えると自分の考えが正しい。ということはどういうことかっていうと、自分が合理的であるとか、論理的であるとか、考えることは全部利己的に合理的である、利己的に論理的であるということを言ってるって事ですね。

例えば、まあこういったニセ科学の議論でもですね。だいたい学者っていうのは俺が正しいんだと。お前は間違ってるんだってなるんですね。あいつの言うこと聞きたくないとかね。それからあいつはニセ科学者だとか。それはニセ科学者でも何でもないですね。あいつの考えは間違ってるも間違ってないんですね。ただ、自分と違うってことで。それを認めると、自分の権威が損なわれるとかですね。そんなことを認めるとって全部自分なんですね。

この頃あの若者でもですね、マズローのなんとか自己実現とかいう三角形かなんかが気に入ってですね。自己実現しなきゃいけないんだ。その自己実現しなきゃいけないんだということに疑いを挟まないというのが利己的なんですよね。あの自己実現を図らなきゃいけないと思った時に、自分が自己実現を図らなきゃいけないと思ったのは利己的なんじゃないかって一個考えてみなきゃいけないってことなんですね。

ていうのは、人間が正しいと考えることは利己的なんですから。ですから、それをまず考えてみなきゃいけないんですね。毎日の我々の生活を見ても、だいたいはですね、自分がそれしたら損するってなことをやらないんですね。損するで決めてるようなところがあるんですね。損する得するったら自分が得するか損するかですから。それを合理的に説明したり論理的に説明したりすれば、それで満足する。これはアメリカとかヨーロッパのやり方ですね。

ですから、ニセ科学っていうのを考える時もですね、再現性があるっていうのもこれは違いますよっていうのは前回十分に説明しましたから、再現性があるから科学とは言えないということですね、まず。それから、合理的であるとか論理的であるって事が科学ではない。それはどうしてかといったら、こっちの方は人間の頭脳に欠点があるんで、そんなことで我々の貴重な科学っていうのを汚してもらっては困るということなんですね。

そうすると、じゃあ何が科学になるんですね。一つは科学は手法であるということも言えるんですね。別にあの科学的というのがあるんじゃなくて、ニセ科学ってのがあるんじゃなくて、科学という手法にのっとっているということですね。手法にのっとってるっていうのは、どちらかというと自分の考えに対して検証手段があるかどうかということですね。

例えば、実験系の科学っていうのは割合簡単でですね。自分でこうだと考えたら、それを実験すると。実験がきちっと行われてる限りは、それが検証手段になりますね。私なんかも長い間物理とか物理科学やってきましたが、自分が考えてこれが正しいと。これまでの学問でこれが正しい。これまでの学問十分に学んで、十分にゆっくり検討し、式も解き、計算もして、これが正しいんだ、でも間違ってることが多いわけです。

間違ってるからこそ、実験というのが大事なわけですね。実験っていうのが自分が考えた正しいというのを検証するってことですね。ですからまあ、人生はこういうもんだからこういう生活がいいなんてのは人生が終わってみないとわかんないんで、検証手段がないんですね。

経済学がそうですね。経済学はまだ学問では、科学になってないなんっつって言いますとね。猛烈経済学者から反論が来ます。その反論のほとんどは、自分が経済学者だから経済学を貶めてもらっては困るって利己的な判断なんですね。本当にこう経済学の本当なのか。僕は経済学には実証手段がないから、検証手段がないから。

過去のものは検証手段ありますね。例えば、1929年に起こった大恐慌に関しては、こういう手段を取ったらこうだったようなことが分かりますので。一応検証手段があるわけですね。

ところが、経済学の多くは、将来を今年はどうなるかっていう検証手段を、今年はどうなるかということを考える時に検証できないんですよ。これはあの、トルストイの人間は何で生きるのかってのに書かれてるように、神様は人間に愛をくれたけれども、未来を予測する力はくれなかったというのがトルストイ流の文章で書かれておりますが。そういうことなんですね。

ですから、将来のことを科学はいうことはできない。これはヘーゲルがですね、ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛翔するという言葉でこれを表現しておりますが。私だけの意見じゃなくて、多くの人がですね、人間の脳には欠陥がある。だから、未来は予測できないし、合理的、論理的、科学的ということはないんだと、自分の頭で考える正しさにはないんだということですね。

そうするとですね、私が今科学って言ってるのは自然科学というのは物理とかね、数学とかそういうもんですね。医学はですね、科学ですから。これ検証手段もあるんですが。今のところ私の見解ではね、医学は完全には科学になってない。なぜかって言ったら、あまりに相手にする事象が複雑で、例えば、我々の物理っていうのはね、簡単なんですよ。わかるところまでわかればいいんですよね。だから割合と科学的なことがしっかりとなるんですけども。

医学とかまあさっき言った経済学なんかそうなんですが、対象物が決まってる。人間だとか世の中とかね。そうすると対象物が今の現在の科学のレベルで検討できれば、それはあの科学的手法なるんですけど。検討できないほど複雑であると、相当人間が偉くならないとダメなんですね。医学なんかそうですね。

ちょっとお茶を飲ませていただきますが、この咳はもうですね、40年来でありました。最初の頃はなんか肺炎かなと思ったんですけど、これだけ続いてるとなんか私の喉ら辺の欠陥があるんでしょうね。

ということで、検証手段がある。だから私はニセ科学の議論の方はいずれも立派な方なので、ニセ科学で議論されていることが間違ってると私言わないです。私と意見が違いますということです。考え方違います。

まあもう将来ね、ずっとやっていくうちに、やがてその人間の頭はですね、検証しながら、ニセ科学とは何か、科学とは何か、私は合理性とか、論理的とか、再現性とか、そういうの関係ないと言ってるし。それから、そのニセ科学のネットで出てた非常に優れた番組でですね、言われた化学とは再現性であると。論理的であるということが正しいかはやがて分かりますね。今のところわからないですね。

わかるっていうのは番人がですね、ある程度の人が万人が、あそうかという納得する、その手段とか、結果とか、そういうものがあるって事ですから。私のように、検証手段があるのが科学ではないかと。

従って、哲学が科学かどうかはっきりないってのが僕は前から言ってることで、こんなこと言うとまた哲学者がものすごい勢いで食ってかかってくるんですけど。食ってかかるってこと自体は科学的じゃないんじゃないかと思うんですよね。

あの科学っていうのは反論が許され、かつそれが議論し、合理的な手段とかね、論理的な手段で、ある程度納得性があるというものを積み重ねていって、そこに実証というものを加えて、成り立つというふうに私は思ってますね。

ですからまあ、私たちが科学的とか日常的に言うことは、まあほとんど科学的じゃありませんが。大学では自然科学、社会科学、人文科学、全部科学という名前をつけておりますから、その点ではまあ、大学ぐらいで研究したりものを考えたりする人は、やはり、検証手段を経たかどうかということを厳しく問わなければいけないと思いますね。

この世の中で、検証手段を経てないものがありますね。それはまあここで2つ例を挙げた疫病の件だとか、それから原子力の件なんかはですね、まだ検証を得てないんですね。ですから、科学とは言えないというふうに私は思います。

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